로그인同窓会から、日が経った。離婚届を出す日が、前日となった。カレンダーに入れた木曜日の予定は、最初に見た時よりも冷たく感じなくなっていた。診察。引っ越し後の手続き。その中に紛れている文字。離婚届提出。特別な言葉なのに、毎日見るうちに少しずつ日常の中へ沈んでいく。けれど、それは軽くなったということではなかった。近づけば近づくほど、輪郭がはっきりしていく。私は本当に、優との結婚を終わらせる。東郷の家を出ただけではない。別居しただけでもない。もうすぐ紙の上でも、あの家との関係を終える。その日の夜、新しい部屋で翌日の持ち物を確認していた時、ふと手が止まった。印鑑。本人確認書類。それらを小さなバッグに入れようとして、別のものを思い出した。大学病院時代に使っていた専門書の一冊。引っ越しの時に持ってきたつもりでいたけれど、古い本棚の下段に置いたままだった気がする。明日すぐ必要なものではない。でも、思い出してしまうと、そのままにしておくのが少し気になった。離婚届を出したあとに、わざわざ取りに行く方が重くなる。まだ鍵を持っている今のうちに、取りに行った方がいい。そう思って、私は優にメッセージを送った。『東郷家に忘れたものがあるかもしれません』『明日の前に取りに行ってもいいですか』送信してから、少しだけ胸が落ち着かなくなる。咲子がいるかもしれない。そう思った。私がいなくなったあの家に、咲子が来ていてもおかしくない。むしろ、その方が自然なのだと思っていた。結婚記念日を思い出す。忘れもしない、あの日。私がいてもいなくても、優はあの家にいた。咲子の存在は、私の生活の外側ではなく、内側に入り込んでいた。妻がいても、いなくても。咲子は優の隣にいた。だから、家を出た今ならなおさら、彼女がいる可能性は高いと思っていた。すぐに既読がついた。しばらくして、返信が来る。『いつ来ても大丈夫』その文面を見て、少し拍子抜けした。いつ来ても大丈夫。咲子がいるかもしれないから時間を調整する、とも言わない。まるで、誰もいないから問題ないと言っているみたいだった。『今からでも?』そう返すと、すぐに返信が来た。『大丈夫』『俺は家にいる』俺は。その主語が、妙に耳に残った。行くだけだ。忘れ物を取りに行くだけ。そう自分に言
同期会の翌朝から、スマホが何度も震えた。 真帆。 智子ちゃん。 大貴。 それから、昨日ほとんど話せなかった同期の名前もいくつか。 『また話そう』 『今度ゆっくりご飯でも』 『大学のこと聞きたかったらいつでも』 通知を見ながら、私は少しだけ苦笑した。 こんなこと、今まであっただろうか。 研修医時代にも、連絡をもらうことはあった。 でも当時の私は、必要な返信だけをして、そこから先へ関係を広げる余裕がなかった。 それなのに今になって、昔の同期たちから次々と連絡が来ている。 嬉しくないわけではない。 けれど、どう返せばいいのか分からなくなる。 昼休み、私は休憩室の端でスマホを開いたまま、返信欄に指を置いていた。 大貴からのメッセージをもう一度読む。 『昨日話せてよかった』 『大学病院の件、無理に考えなくていいけど、聞きたいことがあればいつでも』 『近いうちご飯行こう』 ありがたい。 そう思う。 でも、返信内容を考えているうちに、時間だけが過ぎていく。 『東郷先生』 声をかけられて、顔を上げた。 綾瀬先生が、休憩室の入口に立っていた。 片手にペットボトルのお茶を持ち、少しだけ不思議そうにこちらを見ている。 『お昼、食べた?』 『……少しだけ』 『それ、食べてない人の言い方』 いつものように即答されて、私は思わず苦笑した。 『返信を考えていたら、時間が経ってしまって』 『返信?』 『昨日、同期会に行ってきたんです』 そう言うと、綾瀬先生はほんの少しだけ目を瞬いた。 『そうなんだ』 その一言だけだった。 少し驚いたように見えたけれど、それ以上は聞かなかった。 私はその反応に、なぜか少しほっとした。 『思っていたより、行ってよかったです』 『ならよかった』 綾瀬先生はそう言って、休憩室のテーブルにお茶を置いた。 私は少し迷ってから続けた。 『先生の話も、少し出ました』 綾瀬先生の眉が、わずかに動く。 『俺の?』 『はい』 『先生、同じ大学だったのは知っていましたけど』 『有名だったんですね』 一瞬、綾瀬先生は黙った。 それから、少しだけ嫌そうな顔をした。 『誰がそんな余計な話を』 『同期たちです』 『余計なことを』 その反応が少しおかしくて、私は笑ってしまった。 『顔が良
店を出ると、夜風は少し冷たかった。 同期たちの声が、駅の方へ流れていく。 真帆が隣に並ぶ。 『綾香、今日来てよかった?』 『うん』 私は少し考えてから頷いた。 『来てよかったと思う』 そう答えると、真帆は安心したように笑った。 『よかった』 その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。 四年前、私は何も説明しないまま大学病院を離れた。 話す時間がなかったのではない。 話す勇気がなかったのだと思う。 けれど今日、少しだけ戻れた。 過去の場所に、そのまま戻ったわけではない。 今の自分で、もう一度関係を作り直すように。 それができるかもしれないと思えた。 駅へ向かう途中、スマホが何度か震えた。 大貴からだった。 『今日は話せてよかった』 『大学の件、無理に考えなくていいけど、聞きたいことあればいつでも』 『落ち着いたらご飯行こう』 その文面を見て、私は素直にありがたいと思った。 『ありがとう』 『また連絡します』 そう返す。 少し遅れて、別の同期からもメッセージが来た。 『今日は久しぶりに会えて嬉しかった』 『また集まろう』 さらに別の名前も増えている。 真帆が横から画面を覗き、苦笑した。 『ほら、みんな急に連絡してくる』 『ちょっとびっくりしてる』 『綾香、昔からそうだったよ』 『話したい人は多かったけど、近づきにくかっただけ』 その言葉に、胸の奥が少しざらつく。 話したい人は多かった。 私は知らなかった。 自分がどう見られていたのか。 誰が声をかけようとしてくれていたのか。 どんな関係を作れたかもしれなかったのか。 あの頃の私は、ずっと何かに追われていた。 父の期待。 白松の名前。 医師として遅れないこと。 失敗しないこと。 誰かと近づく余白を、自分で持てなかった。 その結果、いくつもの関係を、始まる前に通り過ぎていたのかもしれない。 そう思うと、少し苦い。 でも、同時に不思議な明るさもあった。 今からでも、遅すぎないのかもしれない。 連絡先が増える。 話を聞ける人が増える。 仕事の選択肢が広がる。 昔の自分を知る人たちと、もう一度つながる。 それは、怖いことでもあり、少し嬉しいことでもあった。 駅の改札前で、真帆が手を振る。 『無理しないでね』 『で
同期会の席は、思っていたより穏やかだった。もっと聞かれると思っていた。どうして大学病院を辞めたのか。結婚生活はどうだったのか。今は何をしているのか。そういう質問が、直接来るのだと思っていた。でも、実際には違った。皆、どこか探るように、でも踏み込みすぎないように、言葉を選んでいた。『白松さん』隣から声をかけられ、顔を上げる。上原大貴だった。研修医時代、同じ時期に救急ローテを回っていた同期だ。爽やかで、人当たりがよくて、昔から周囲に好かれる人だった。今日改めて見ると、整った顔立ちをしている。ただ、優や綾瀬先生のように、誰が見ても一瞬で目を奪われるような華やかさではない。自然に場へ馴染んで、気づくと中心にいる。そんな印象の人だった。大貴と呼んでと言われて以来。すごく近いわけではないが、言われた通りに呼んでいた。『大貴、久しぶり』『本当に久しぶり。来てくれて嬉しいよ』まっすぐそう言われて、少しだけ戸惑う。『急に辞めちゃったから、ちゃんと話せなかったの、ずっと気になってた』『ごめんね』自然に謝っていた。大貴はすぐに首を振る。『責めてるわけじゃないよ』『ただ、もっと話してみたいなとは思ってた』その言葉に、少しだけ反応が遅れた。もっと話してみたい。そんなふうに思われていた記憶は、私にはなかった。『私、そんなに話しかけづらかった?』冗談めかして聞くと、大貴は少し笑った。『正直、少し』『やっぱり』『でも、それだけじゃなくて』『白松さんって、高嶺の花って感じだったから』高嶺の花。その言葉に、思わず苦笑した。『そんなふうに見えてたんだ』『見えてたよ』『成績も良かったし、綺麗だったし、家のこともあったし』『隙がない感じがした』家のこと。その言葉は、やはり胸に少し残る。白松家の娘。政治家の娘。私がどれだけ医師として必死に立っていたつもりでも、その名前はいつも背後にあったのだろう。『自分では、そんなつもりなかった』『うん』『今なら何となく分かる』『余裕なさそうだったもん』その言い方が責めていなかったので、私は少しだけ救われた。そう。余裕がなかった。仕事に追われ、父の期待に追われ、失敗しないことに追われていた。誰かに近づく余裕も、自分がどう見られているかに気づく余裕もなかった。『今
同期会の日を迎えた。私は駅前の店の前で一度だけ深く息を吸った。何かを決めに来たわけではない。ただ、懐かしい空間に来ただけ。そう自分に言い聞かせて、店の扉を開けた。個室には、懐かしい顔がいくつもあった。佐伯真帆がすぐに私を見つけて、手を振る。『綾香、こっち』その声に少しだけ肩の力が抜けた。研修医時代より髪が短くなっていたけれど、笑った時の目元は変わっていない。『来てくれて嬉しい』『誘ってくれてありがとう』そう答えると、真帆は自然に隣の席を空けてくれた。そこに座ると、向かいの女性が少し身を乗り出した。『白松さん、久しぶり』一瞬、呼ばれた名前に身体が遅れて反応する。白松(しらまつ)。研修医時代の私は、確かにそう呼ばれていた。『久しぶり』『大原智子だよ。覚えてる?』『もちろん』完全に近い距離ではなかった。でも、覚えている。大原智子 (おおはらともこ)同じローテにいた時期が短く、何度か当直明けに一緒になったことがある。穏やかで、人との距離の取り方が上手い子だった。智子ちゃんは懐かしそうに笑った。『白松さん、全然変わらないね』『そうかな』『うん。でも、少し柔らかくなった気がする』そう言われて、私は少しだけ笑う。近寄りがたい。昔から、そう言われることがあった。自分ではそんなつもりはなかった。ただ、失敗しないようにしていただけだ。隙を見せないようにしていただけだ。白松の名前に余計なものをつけないように、いつも少しだけ背筋を伸ばしていた。それが周囲には、近寄りがたいものとして見えていたのだろう。でも今日は、その言葉に飲み込まれすぎなかった。話題は自然と、今の仕事の話になる。真帆が私に聞いた。『綾香、今はどこで働いてるんだっけ?』『綾瀬クリニック』その名前を出した瞬間、智子ちゃんの目がはっきり変わった。『え、うちの大学出身の綾瀬先生のところ?』『知ってるの?』思わず聞き返すと、智子ちゃんは笑った。『知ってるよ。むしろ白松さんが知らなさすぎるんじゃない?』『そんなに有名だった?』『有名だったよ。顔が良いし、家も医療法人で、本人も優秀で、しかも変に偉そうじゃなかったから』顔が良い。あまりにも普通に言われて、私は少しだけ反応に困った。綾瀬先生の顔が整っていることは、もちろん分かっている。
翌朝、目が覚めて最初に見たのは、真帆から届いていたメッセージだった。『同期会、来月の第二土曜になりそう』『場所はまだ仮だけど、駅前の店になると思う』『大学病院に残ってる子も三人くらい来るよ』大学病院に残っている子。その一文を見て、寝起きの頭が少しずつ現実に戻っていく。同期会。大学病院。復帰。昨日までは、遠くに置いていた言葉だった。けれど一度目に入ってしまうと、それは思っていたよりも近い場所にあるように感じられた。戻りたいのかは、まだ分からない。考えたいのかどうかさえ、はっきりしない。ただ、知りたいと思っている。今の大学病院がどうなっているのか。私が辞めたあと、同期たちはどんなふうに働いているのか。一度離れた人間が、もう一度あの場所と向き合えるのか。その問いを、なかったことにはできなかった。朝の支度をしながら、何度も考える。この話を、綾瀬先生に言うべきだろうか。そう思って、すぐに首を横に振った。まだ言わなくていい。これは選択肢ですらない。ただ、同期会に行く。昔の自分を知っている人たちに、少し会ってみる。それだけだ。それ以上の意味を、今つけてしまったら、また自分で自分を追い詰める気がした。父に話せば、きっと家の話になる。どの肩書きが今後のためになるか。どの選択が白松の名前にとって無難か。優に話せば、きっと支援になる。勤務時間は大丈夫か。通勤はどうするのか。必要なら知り合いに確認する。どちらも悪意ではない。でも私は今、誰かの判断の中に入るのが少し怖かった。では、綾瀬先生なら。そう考えると、胸の奥が別の形で苦しくなる。あの人は、きっと私の選択を狭めない。私が何かを考えていると言っても、止めない気がする。むしろ、ちゃんと考えた方がいいと言うかもしれない。その反応まで想像できるから、今は言えなかった。止められるのが怖いわけではない。背中を押されるのが、少し怖い。押された瞬間、まだ曖昧だったものが、本当に選択肢になってしまうから。昼前の診察が終わったあと、私はカルテを閉じたまま、しばらく画面を見つめていた。午後の患者さんの準備をしなければいけない。それは分かっている。でも、頭のどこかでずっと、真帆のメッセージが残っていた。『大学病院に残ってる子も三人くらい来るよ』その一文が、静か
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく